「日本では政府がいくら批判されても、自民党に代わって、政権を奪う力のある党がない。そう思うから自民党議員たちにも緊張感が生まれない。国を動かす議員たちに緊張感なくして、国民には緊張感を持てというのか──」
国民の多くは、なぜ自民党政権をこれほど長期間支持し続けているのだろうか。
その要因について僕は、次の2つだと捉えている。
1つは安全保障である。
2つ目は経済である。
https://toyokeizai.net/articles/-/463720(10/23 東洋経済オンライン)
■1つ目の安全保障について。
実は自衛隊が創設されたのは、1954年で、自民党が発足したのが、1955年である。
憲法では9条2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と書いてあるが、自衛隊は戦力も交戦権を有していて、明らかに憲法と矛盾している。
そこで、自民党の初代首相、鳩山一郎は、「自主憲法」をつくるべきだと主張し、実現はできなかったが、岸信介首相も憲法改正を強く訴えた。
ところが、それ以後の池田勇人、佐藤栄作の両首相とも、憲法改正を全く考えていないようだった。
そこで1971年の秋に、自民党きっての頭脳派で、ニューライトの旗手的存在であった宮澤喜一氏に強引に頼み込んで会ってもらった。
池田・佐藤両首相は、憲法改正を考えていないようだが、言わば矛盾を封じ込めて、国民をごまかしているのではないか。
なぜ池田首相以後、姿勢を豹変させたのか。そのことを宮澤氏に問いたかったのである。
すると宮澤氏は、いささかのためらいもなく、やわらかな口調で話しはじめた。
「私はね、日本人というのは、どうも自分の身体に合わせて洋服をつくるのは上手ではない。下手だと思うのですよ」
自分の身体に合わせた洋服をつくろうとすると、軍が突起して政治を抑え込んでしまう。
五・一五事件で犬養首相が軍によって殺され、二・二六事件では、政府幹部が軍によって殺された。いわばクーデターである。
こうして、軍が主導して、勝てるはずのない太平洋戦争に突入して惨憺たる敗北を招いてしまった。
そこで、宮澤氏は、「押しつけられた洋服に身体を合わせるほうが安全だ」と考えたのだという。
宮澤氏だけでなく、池田・佐藤両首相をはじめ、戦争を体験した自民党の幹部たちは、このように考えたようだ。
吉田内閣の時代に、池田・宮澤の両氏が2度アメリカを訪問し、その時、「あのような憲法を押しつけられたら、日本はまともな軍隊を持てない。だから、日本の安全保障はアメリカが責任を持ってほしい」と要請したのだという。
そして、アメリカは、その当時もその後も、日本が強い国になるのは困るから、その要請を快諾したということだ。
そのために、日本は戦争に巻き込まれることがなく、70年以上、平和を維持できた。
野党もその点では異論はなく、だから自民党政権が長く続いたのである。
だが近年では、アメリカの経済が悪化して、アメリカが「パックス・アメリカーナ」を維持するのが難しくなり、日本の安全保障を、改めて考えざるを得なくなってきている。
■2つ目の経済について。
日本は、戦争で惨憺たる敗北を招いた後、自民党政権の懸命な努力によって、池田首相時代から奇跡と称される高度経済成長を実現した。
だが鉄道や道路網が太平洋側を偏重して建設され、しかも海路による輸出入は太平洋側が便利なために、企業も工場も太平洋側に林立して、太平洋側は過密、日本海側は過疎となり、太平洋側は地価が高騰し、そのうえ、深刻な公害に襲われた。
そのために、太平洋側の自治体では、選挙で野党が強くなり、いわゆる革新知事や革新市長が次々と登場することになった。
そこで、当時幹事長であった田中角栄が、1967年に『中央公論』に、「自民党の反省」という論文を発表し、1968年に「都市政策大綱」なる構想を打ち出した。
日本列島全体を改造して、高能率で均衡のとれた、ひとつの広域都市圏に発展させるというのである。
その後、田中が首相になる直前に発表した『日本列島改造論』は、問題点もあったが、田中の構想が、過密・過疎を解消し、日本全体を発展させたことは間違いない。
1980年代に入って、日本は凄まじい輸出力を有することになり、アメリカに集中豪雨的に輸出し始めた。
アメリカは、深刻な貿易赤字となった。
そこで、レーガン大統領は、日本からの輸出を止め、逆に日本への輸出を増大させるために、日本をまるで敵国であるかのように無理難題を次々と押しつけてきた。
中曽根首相に、「なぜアメリカのこんな無理難題を、日本は受け入れなければならないのか」と問うと、「安全保障をアメリカに委ねているからね」と苦い表情で話した。
1990年代にアメリカでIT革命が起きた。インターネットが開発されたのである。
日本は、いわゆる日本的経営の構造的な問題で、IT革命に参入できず、人工知能の権威である東大の松尾豊教授によると、日本の産業界は、アメリカの3周遅れになってしまったということである。
1989年には、時価総額ランキングで、世界のトップ50社の中に日本企業が32社入っていたのだが、現在残っているのはトヨタ自動車1社だけである。
当時は、世界における日本のGDPのウエイトは15.3%であったが、現在は6%にまで落ち込んでいる。
そこへ深刻な新型コロナウイルスによるパンデミックが起こり、菅内閣は不手際を連発した。
今こそ、野党の政権奪取に期待したい。